フィリピーヌ・ド・ロートシルト男爵夫人、80歳で死去
- 2014/08/24
- 01:03
ボルドーを代表する女傑フィリピーヌ・ド・ロートシルト男爵夫人が、22日、手術に伴う合併症で亡くなった。80歳だった。
フィリピーヌさんは、1級格付けシャトー・ムートン・ロートシルトの持ち株会社バロン・フィリップ・ド・ロートシルト(BphR)のオーナーで、クレール・ミロン、ダルマイヤックなども所有する。ムートン・ロートシルトを1973年に1級に昇格させたフィリップ・ド・ロートシルト男爵の一人娘として1933年に生まれた。

フィリップ・パスカルの名で舞台女優として、30年近く活躍し、父の死去に伴って1988年に経営を継承。父の始めた、カリフォルニアのオーパスワン、チリのアルマヴィーヴァなどの国際展開を発展させる一方で、1998年にはラングドック地方リムーに土地を購入して、ドメーヌ・ド・バロナークを始めた。
ワインの品質向上にも力を入れ、セカンドワインのプティ・ムートンを1990年代初頭に導入。選別を強めて、グランヴァン比率を40%まで落とした。2003年には技術責任者のフィリップ・ダルーアン氏をブラネール・デュクリュからリクルートし、ムラのあったワイン造りを格段に向上させた。ムートンの醸造施設の刷新も2013年には終え、ダルーアン氏が「区画内のさらに細かい違いに対応できる体制となった」と話すまでになった。また、帝国の屋台骨を支えるムートン・カデのラインアップを豊かにし、世界に200万ケース以上売る巨大ブランドに育てた。
ライバル関係にあるラフィット・ロートシルトのエリック・ド・ロートシルト男爵はいとこだが、親交を強め、ロスチャイルド一族が提携するシャンパーニュ「バロン・ド・ロスチャイルド」生産にこぎつけた。下の画像は左から、エリック男爵、フィリップ・セレイ、バロネス・フィリピーヌ

ムートン・ロートシルトのアーティスト・ラベルの人選も、芸術的センスと人脈を生かして、多彩な芸術家を起用。2008年には、ボルドー人気の高い中国人アーティストも起用した。
2度の結婚をし、BphRのヴァイス・プレジデントを務める長男フィリップ・セレイ・ド・ロスチャイルド氏ら3人の子供がいる。近年は1963年生まれのフィリップ・セレイが経営の中心で、2度目の結婚で学者との間に生まれた1971年生まれの次男ジュリアンも参画している。

重要な事項はすべてフィリピーヌが決めるというリーダーシップの持ち主だった。ムートン・カデの成功で抜てきされたユーグ・ルシャノワーヌ社長は 「BPhRの取締役会は醸造、財務、マーケティングの3本柱で動き、専門分野の意見を出す。バロネスは日々の運営にかかわらない。すべてを把握し、経営は我々に任せているが、最終決定は自分で行う」と語る。多彩な意見を吸い上げる手法で、品質向上、海外進出を含むマーケティングを進めてきた。
戦時中に、母がゲシュタポに連行され、ナチスの収容所で死亡するという悲劇にあっている。舞台俳優時代の1976年に初来日し、その後も何度か来日した。その場にいるだけで、人の目を引き付ける華のあるオーラの持ち主。世界のトップ家族経営ワイナリーで作るプリムム・ファミリエ・ヴィーニのガラディナーが、東京で開かれた際も、いつしか座の中心となり、エネルギーを感じさせた。億万長者の娘として育った奔放さもあった。箸使いは得意ではなく、天ぷらを食べる際に、面倒になると手づかみで食べてしまうお茶目さもあった。
2007年にレジオンドヌール勲章を叙勲し、2013年にはマスター・オブ・ワイン協会から、女性として初めてのライフタイム・アチーヴメント賞を受賞した。
フィリピーヌさんは、1級格付けシャトー・ムートン・ロートシルトの持ち株会社バロン・フィリップ・ド・ロートシルト(BphR)のオーナーで、クレール・ミロン、ダルマイヤックなども所有する。ムートン・ロートシルトを1973年に1級に昇格させたフィリップ・ド・ロートシルト男爵の一人娘として1933年に生まれた。

フィリップ・パスカルの名で舞台女優として、30年近く活躍し、父の死去に伴って1988年に経営を継承。父の始めた、カリフォルニアのオーパスワン、チリのアルマヴィーヴァなどの国際展開を発展させる一方で、1998年にはラングドック地方リムーに土地を購入して、ドメーヌ・ド・バロナークを始めた。
ワインの品質向上にも力を入れ、セカンドワインのプティ・ムートンを1990年代初頭に導入。選別を強めて、グランヴァン比率を40%まで落とした。2003年には技術責任者のフィリップ・ダルーアン氏をブラネール・デュクリュからリクルートし、ムラのあったワイン造りを格段に向上させた。ムートンの醸造施設の刷新も2013年には終え、ダルーアン氏が「区画内のさらに細かい違いに対応できる体制となった」と話すまでになった。また、帝国の屋台骨を支えるムートン・カデのラインアップを豊かにし、世界に200万ケース以上売る巨大ブランドに育てた。
ライバル関係にあるラフィット・ロートシルトのエリック・ド・ロートシルト男爵はいとこだが、親交を強め、ロスチャイルド一族が提携するシャンパーニュ「バロン・ド・ロスチャイルド」生産にこぎつけた。下の画像は左から、エリック男爵、フィリップ・セレイ、バロネス・フィリピーヌ

ムートン・ロートシルトのアーティスト・ラベルの人選も、芸術的センスと人脈を生かして、多彩な芸術家を起用。2008年には、ボルドー人気の高い中国人アーティストも起用した。
2度の結婚をし、BphRのヴァイス・プレジデントを務める長男フィリップ・セレイ・ド・ロスチャイルド氏ら3人の子供がいる。近年は1963年生まれのフィリップ・セレイが経営の中心で、2度目の結婚で学者との間に生まれた1971年生まれの次男ジュリアンも参画している。

重要な事項はすべてフィリピーヌが決めるというリーダーシップの持ち主だった。ムートン・カデの成功で抜てきされたユーグ・ルシャノワーヌ社長は 「BPhRの取締役会は醸造、財務、マーケティングの3本柱で動き、専門分野の意見を出す。バロネスは日々の運営にかかわらない。すべてを把握し、経営は我々に任せているが、最終決定は自分で行う」と語る。多彩な意見を吸い上げる手法で、品質向上、海外進出を含むマーケティングを進めてきた。
戦時中に、母がゲシュタポに連行され、ナチスの収容所で死亡するという悲劇にあっている。舞台俳優時代の1976年に初来日し、その後も何度か来日した。その場にいるだけで、人の目を引き付ける華のあるオーラの持ち主。世界のトップ家族経営ワイナリーで作るプリムム・ファミリエ・ヴィーニのガラディナーが、東京で開かれた際も、いつしか座の中心となり、エネルギーを感じさせた。億万長者の娘として育った奔放さもあった。箸使いは得意ではなく、天ぷらを食べる際に、面倒になると手づかみで食べてしまうお茶目さもあった。
2007年にレジオンドヌール勲章を叙勲し、2013年にはマスター・オブ・ワイン協会から、女性として初めてのライフタイム・アチーヴメント賞を受賞した。
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